2008年08月09日

突然ですが、ブルーバードなんですよやっぱり。

 ブルーバードは最強のファミリーセダンです。U13ARXの、しかもAT車乗りのわたしですけれど、やっぱりブルーバードです。ええ、ブルーバードがいいんです。
 U13SSS Ltd ATTESA欲しい。(もちろん、現在の車も愛しいので乗る。)
 だから日産、つくってくれ、またつくってくれ。ブルーバード魂をみせてくれー。最新技術で、しかも昔の素材も入れて(今のってやわくないですか?)、気合の入ったやつを。
 フラッグシップがスタンダードや!!!!!!!!!!!!
 ブルーバードは高性能で硬派で、ファミリーセダンなのが最強なのです。まさしくスタンダードのスタンダードです、基本です。
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はづき生の誕生日

 誕生日です。
 伯父が被爆した日です。
 祖父も後日被爆。
 そんな日。
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2008年08月08日

むかつくキーワード

 まとめられないのだけれど、思いついたキーワードを並べておく。説明があるかもしれないし、ないかもしれない。順序だてても系統だててもいないと思う。


支配ツール

ガラス玉
宗教

コンサルタント
排出権
ODA
その他いろいろアメとムチ

グローバル化経済
情報のグローバル化
都合のいい共通基準
スローガン
プロパガンダ
ツバル
オセアニアの島々
情報攪乱
言語
ビジネスモデル
特許
通貨
管理通貨制

投資
取引市場

国土破壊
民族操作
資源搾取

軍産複合体
戦争
紛争
テロ

アメリカ
EU
日本
先進国
発展途上国
ロシア
中国
韓国
共産主義
資本主義
インド
ブラジル
北朝鮮
イラク
アフガニスタン
コソボ
ボスニアヘルツェゴビナ
イラン
イスラエル
キューバ
中米
ミャンマー
パキスタン
スリランカ
東ティモール
コンゴ
アンゴラ
ソマリア
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2008年08月07日

とりあえずむかつく結論。

 こう暇だと、忙しかったし何か用事があった方がいいとはまったく思わないが結果的に、だらだらとしている夏の午後、なんとなく、ぼーっと考えている。というか、常々、スパーク的に思いついては消えていくいろんな事の、ある方向に偏った部分について、結局自分が感じているむかつきを、なんとなく記すものである。その思いついたことや過程を記述することは、とくにそれを整理などすることは、わたしには非常に困難だし、こういったことは思いつきで進んでいるので、とりあえず結論とそのちょっとした周辺だけ書いておくのだ。
 むかつく。
 最終的には自分にむかつく。自分を取り巻く周辺のことにむかつく。もっと大きな世界の構造のあれやこれやに対してむかつく。
 なんでむかつくかといえば、自分のこの怠惰な生活は、怠惰だ暇だつまらない鬱々とする、ってゆーかままならない事ばかり、などと文句たらたら言っているにもかかわらず、いわゆる生活水準的には比較的恵まれている方だと思うし、全世界的にみれば日本にいるというだけで、そうとうラッキーで物質的に裕福なのだ。年金問題など山積なれど、とりあえず明日の生活くらいはどうにかなるだろうという楽観的な見方はなりたつ。だから、不満をもらしながらもそのままの状態なのだし、そういった満たされた状況だから、満たされた状況で発生するような不満がでてくるのである。
 そんな怠惰で快適で麻薬のように抜けられない生活を支えているのは、世界中のあれやこれやで、もっとも根源的で大きな部分は、いわゆる先進国と発展途上国と名付けられた国々の、政治的経済的支配構造の賜物で、ミクロ的にはわたしの家族達のお陰で、わたしはこうやって生活しているのである。しかも、そのお陰の内容は、労働であり酷使であり略奪であり脛かじりである。
 わたしの生活は、彼らの血と肉と骨の上になりたっている。
 あろうことかわたしは、それを知りながら、それをよしとして、現在の生活が維持されることを望み、血を啜り、肉を食み、骨を齧っているのである。そしてその屍の上で胡坐をかき、寝そべっているのである。
 実にむかつく。そして、こうやって書きながらも、その状態から抜け出したくないのだ。

 書きたくて、なかなか書けないことは、これらの構造と、それに対する有象無象の意識の持ち方、認識の度合い、行動などである。
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2008年08月01日

しゅちょうって難しいっすね。

 ブッシュ大統領の指示で、アメリカの地名委員会が、日本が領有を主張している竹島を、韓国領と表記したらしい。なんでも大統領の訪韓を前にしての措置ではないか、と言われているらしい。
 日本は、一機関が発表しただけのことだし過度に反応することではない、冷静に受け止めたい、と言っているようだ。
 わたしは日本人で、日本の主張を信じて、竹島が日本の領土だと信じたい。そして李承晩以来、韓国のやり方は強行的で不当だと感じている。(あくまで、日本側から見た場合。)
 話が本当なら、ブッシュ大統領も、アメリカも、結局、訪韓と韓国を含めた国際社会のかけひきのためにそうした、ということで、その理不尽さと日本の不甲斐なさが、残念で、悔しい。
 みなさん、いろいろと都合があるのでしょうけれど。それぞれの立場があるのでしょうけれど。対処の難しいことなのでしょうけれど。ただただニュースを聞いた身の感情としては、なんでやねん。

 そういえば、googleでも韓国領になっていた気がする。
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2008年07月31日

ファミリーマート栗原四丁目店

 いつも利用していた、ファミリーマート栗原四丁目店が、2008年7月31日8時をもって閉店いたしました。
 ありがとうございました。
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2008年07月26日

江北橋

 ここ数ヶ月、江北橋を通ることが多くなりました。母の通院の送迎をしているのですが、江北橋が便利なのです。
 うちは江北橋からさほど遠くなく、普段から利用できるはずなのですが、ずっと避けてきました。おそらく心霊スポットとしてご存知の方も多いかと思います。
 わたしは、怖がりではありますが、まったくというほど霊感などがないためか、心霊現象というものを、感覚的には信用できていません。(否定ではありません。わたしが感じられないのです。)そんなわけでホラー小説を読んで怖がったり、悪夢をみたり、妄想で勝手に怖がったりしながらも、心霊スポットなどに信憑性は感じておりません。ただ、怖そうだなとか、そんなイメージを持っているだけです。
 そんなわたしが、なぜ普段から江北橋を避けていたかというと、心霊スポットだからではなく、事故が多いからです、不自然なほど。ただ、その事実をもって、わたしは江北橋に恐怖を感じていました。別に、噂で、事故が多いということを知ったわけではありません。地元なので、避けてはいても、しばしば通る機会があるのです。そして、通るたびに、欄干に穴が開いているのです。何箇所も工事中なのです。古い欄干と新しい欄干が混ざって、汚れが斑模様になっているのです。毎週どころか毎日何かが起きている感じがします。
 橋自体は平凡な感じで、まったく怖い感じがしないのですが、そんななんでもないところで、事故が毎日のように多発しているのです。
 噂では、幽霊が出る、ないはずの道が現れる、突き当たりのT字路がいけない、突き当たりの事故写真がいけない。(北詰の突き当たりT字路は十字路になりました。)南詰めのカーブがいけない、などいろいろ言われていますが、事実はわかりません。
 それが、何年か前に、桜の柄が入った丈夫な欄干にして、そのときにお祓いなどもして、それから事故が起こらなくなったという話をどこかで見かけました。(欄干が変わったのは確認しています。)
 そんなわけで現在は、江北橋をしばしば利用しております。
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2008年07月23日

処理の憂鬱

 昨夜なんとなく検索をし、気になっていたのでブックマークをしておいたサイトを、なにとはなしに先ほどからだらだらと、だらだらと読んでいて、ふと、思いついたので書く。こういったことは、書く、ということを除いて、わたしにとってはかなり日常的なことである。思いついたときに、思いついたように書かないと、たとえ纏っていなくても書かなければ逃げてしまうので、今回は書いてみる。
 読んでいたのはこのサイト。
 http://lifestyle.idea4u.net/memo/1.htm
 わたしは、整理が苦手でだらしなく、いろいろな表現を望みながらも果たせず、ただだらだらといじくりまわし、実はそのいじくりまわしたりしていることが趣味なのではないか、というくらい、そういった我が身を懐疑し辟易しているのであるが、やはりこういったものには引き付けられて、ことあるごとに読み出す。
 読むと楽しい。なんだか近い未来に自分は理想的な方法で物事を整理できて、非常に生産性の高い日常を送れるような気になってくるし、自分の考えに合致したものがあったり、気になっていた部分について述べられていたりすると小躍りするほど嬉しい。そして、こういったものから、いろいろなことをインスピレーションによって「発見」したり、様々な事象の関連性について想いを馳せたりなどして、なかなか飽きないものである。
 ここで、こういったものを化学変化だと思う。こういったもの、というのは例えば想いを馳せたりインスピレーションがあったりすることである。この文も、さきほどのサイトを読んでいて、ふと思いつき、それを書こうとなんやかやと書き綴っているうちに、このように引き出されてきたものを、どうにかこうにか書きとめ纏めようとしているものである。
 表現や創作といったものは、全ての活動においていえるものだと思う。そして表現や創作は、入力、処理、出力に、境界はあいまいながらも大きく分けられると思う。
 わたしは入力たる読書や観察なども苦手なのだが、最終的に出力ももちろんできておらず、それは入力によるものばかりとも思えない。きっとそれは、処理に属する部分にも大きな問題があるのだと思っている。
 処理の部分をテキトーに分けてみる。テキトーでないと分類できそうもないので、テキトーに分類して、なんとなく感じていただける方がわかりやすいと思うので、必要だと思われる部分をテキトーに分類する。
 処理は、入力から処理に移行する部分。化学反応がおこる部分。化学反応の前後で、物事を整理したり化学反応へ導いたり、化学反応の後処理をする部分。出力へと通じる部分。などに分けられると思う。
 わたしは、化学反応の部分だけならば、多少はおきやすいタイプだと思う。ただ、それをとりまく能力が、極端に貧弱なのだ。どうにかこうにか入力したものを化学反応をおこすために纏める部分は、洗練されていない。だから使い古されたような、斬新さのない、ただただどうでもよいものばかり思いつくのだと思う。せめて化学反応のあとに研ければいいのだが、それもできていない。それは、わたしが、そうするための技術をみにつけていないためであり、それをみにつけるための努力ができていないということである。そして化学反応のあと、出力にいたるまで、こういった状況がつづく。小説、漫画畑でわたしを知る人たちは、わたしの遅筆さと折れやすさ、ヘタレさなどについては感じていることも多いと思う。遅く、きちんと書ききれず、どヘタなのだ。そして気ばかり多く、思うことばかり多く、チャットなどで好き勝手な発言をしていることが多いと思う。ひとつの原因は、わたしが地道にものごとをつきつめられない性格(その原因もいくつかあるようで、本人としては鋭意努力中である。)にあるのだが、その性格が形作った現在のわたしに、処理の能力が無い、ということが、もうひとつの原因でもある。
 わたしと似たような方は、そこそこいらっしゃると思う。だからこそ、これらのノウハウは人気があり、書店でも一ジャンルが割かれているのだ。では、これらは利用価値があるのかどうか、そして利用して生産性は上がるのかどうか。
 答えは、利用価値があり、生産性もあがるが、そうでない場合もある、ということである。
 実に、これらは、入力から出力までの間、処理とその周辺のことがらにおける、非常にすぐれたシステムであるが、どうしても埋めきれないものがあり、きちんと機能しなければ、意味は無いのである。そして、こういったものが好きな人ほど(わたしのように)、それをきちんと機能させることが苦手なのである。おそらく心当たりがあるはずである。毎月新しいノウハウ本を手に取り、新しい手帳やメモ、コンピュータシステムがあれば手を出して、そこそこは便利になったような気がしながらも、進んでいるのかいないのか、そして、決定的にたどり着けない部分があることも、うすうす気づいているようなこと。
 これらの技術は、覚え切れない物事を整理したり、もはや出尽くしたようなアイディアをしぼりだしたり、漏れや抜けのあったところを見直したり、情報の出所にしたりと重宝する。しかし使われなければ意味が無い。
 きちんと、自分の使う範囲、使いきれる範囲、スタイルにあった技術を選び、まずやってみることからはじめるのが肝要かもしれない。
 そして、なによりも、出力できなければ意味が無い。わたしは極度に出力が少ないのだ。だから、入力から出力までにおける自分のスタイルというものが無いし、それゆえに問題点もあやふやであって、洗練どころかまだずっと手前の段階である。そういった道筋もないのに、技術を使ったところで、使えるものではないのだ。使う場所があってはじめて、技術は使えるのである。まずは、出力までの道筋を、きちんとつけることからはじめたい。
 なお、蛇足ではあるが、こういった技術もすぐれているが、脳も非常にすぐれている。化学反応もよりおきやすい。脳で処理すること、技術と道具を使って処理することなどの使い分けについても、吟味できるようになりたい。
posted by はづき生 at 11:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月21日

笹短歌投稿:日本史上の人物

 念力だじゃれといえば、さささん、笹公人さん(歌人)。笹さんのサイト『笹公人の短歌プロジェクトBlog 笹短歌ドットコム』、略してササタン、笹短歌、において、短歌の題詠投稿イベントがあります。投稿された歌を笹さんが選出し講評を加えます。今回のお題は「日本史上の人物」。わたしも挑戦してみました。

*** はづき生の投稿 ***

この間坂本竜馬に会ったとき死なないでくれと頼んでおいた

古銭屋で太子と諭吉を売ってみた千二百円の価格差あった

あおによし奈良公園の鹿に訊く額田王ええ女やろ

陸奥を松尾芭蕉と曽良が行く通った跡は大観光地

猿猿と言うな信長胸の内出世街道豊臣秀吉

はづき生 2008-05-26 14:55:57

***********

 結果は惨敗。一首も選出されませんでした。(´・ω・`) ショボーン


 むうん、むつかしー。選出されないのには理由があり、いまだに自分の短歌がなぜ選出されなかったのか明確にわかっていないのだから、というか、どう歌を詠んでいくか、何を詠んでいくか、などなど常にそういったものと向いあっていくものだけれど、ただまだ全然、とっかかりも無いような今の状態。自分の中でなにか少しでも掴んでいなければと思うのだけれども、そういったものが無い状態なので、どうしてもただただなんとなく作ってしまったりしているので、そういったものをどんどん突き詰めていかなければならないな、と思いました。



 一方、嬉しいことも。
 大勢の方が投稿しているのですが、他の方の作品を読んで、ああいいな、と憧れる作品もありまして、その作品がとりあげられていると、とても嬉しいです。


 いくつか紹介させていただきます。


***

宮田ふゆこさん

アロハシャツ着くずしている少年の二の腕あたりに信長が棲む

********

 ちょーーーーーかっちょいい。棲むっていいですよね、棲むって。もー惚れちゃいそーなくらい。粋で覚悟の決まった少年の姿が思い浮かぶようです。うちの近所にいないかねー、着くずしている人は多そうなんだけれど。




***

小野伊都子さん

我が儘な上司を持った部下たちでバー光秀は今日も満員

一斉にバルサンを焚く団地には武田の幟はためいている

*********

 小野伊都子さんですよー。気に入って憧れて、そっこーサイトにカキコに行ってしまいました。実は先日取り上げた小椋庵月さんともお友達なようで吃驚。


 バー光秀に、おもわず(=゚ー゚)(。_。=)(゚ー゚=)(=。_。)うんうん。なんか大人なでおしゃれな雰囲気で、しかも哀愁が漂っていそーな情景が目に浮かびます。光秀のイメージがとても効いている。これは光秀でなければいけない。

 タケダは笑っちゃいました。しかもなんか勇ましそーで、バルサンが狼煙にみえたりなんかして。ゴキブリを取り巻く戦国絵巻。


以下にサイトを載せておきます。


笹短歌ドットコム
http://www.sasatanka.com/

短歌題詠:日本史上の人物
http://www.sasatanka.com/detail.php/121#comment
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2008年07月13日

2008大相撲名古屋場所初日

 大相撲名古屋場所、波乱というか、やっぱりというか。朝青龍はすでに、大横綱であったかつての朝青龍ではないのかもしれない。身体が、心が、全てが行き渡っていない。ふつうに強い。ふつうに気合を入れた。くらいな感じ。以前のように、突き抜けたものがないのだ、行き渡っていないのだ。これでは関脇程度だと思う。安美錦がこのところ安馬の後塵を拝しているのも、だいぶ強くなり、試合巧者ぶりも際立ってきながらも、未だ突き抜けたものに手が届いていないからだと思う。そんな、最高位関脇あたりで足踏みをしているような力士と、同じくらいの雰囲気。いったい何が狂わせていったのだろうか、果たして戻る日はくるのか。
 琴欧洲も相変わらず。気持ちで負けている。まったく出られず、そのまま崩されて終わり。最後に思い出したように投げを打ったが、当然どうにもならず。まともに当たっていれば勝っておかしくないのに、それがどうしてもできない。これを越えられなければ、横綱は無い。
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2008年07月10日

寝たいのに寝られず焦った朝

 いきなり更新ができなくなった。というか、メールアドレスとパスワードの入力を求められた。入力したがERRORが出た。また忘れてしまったのかと思った。ふと思い立ち、自分のメールボックスなども確かめに行った。全て使用できなかった。
 再起動。しかし結果は同じだった。なんとなくクッキーの設定を確かめてみると、禁止になっている。いじっていたとき何かの拍子で変更してしまったらしい。セキュリティレベルを中にすると、元に戻った。
 思った以上にクッキーに依存していることがわかった。
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2008年07月04日

親近感:かたづけ版

 漫画や小説やドラマなどで、自分に似ている登場人物がいることがある。わたしにも、いる。
 それは『菫画報』の菫であったり、『のだめカンタービレ』ののだめである。(何度もこの注を入れているが念のため。ルックスと才能を除いて似ているのだ。)この二人の生態は、わたしに非常に似ていて共感をおぼえる。
 そして、またみつけた。わたしはこのドラマを観ていないので、詳しいところはわからないが少なくとも、部屋が散らかっている、という点において、わたしにそっくりなのだ。
 それは『佐々木夫妻の仁義無き戦い』の佐々木律子である、某所でドラマに関する紹介文のようなものを読んだが、佐々木律子の部屋の汚さ片付けの下手さについて、押入れから物が雪崩れてくる、足の踏み場は物と物の間である、洋服などが無造作に積んである、物が全てバラバラになっている、などと評している。実に共感を覚える。
 わたしの部屋は、既に埋まっている。押入れも、床も。本棚わ隙間にも本が並べられ積まれごちゃごちゃに置かれ、机の上は山ができている。机の天板の上にも物が積まれている。本棚の上にも積まれている。床からは段ボール箱の高層ビルが建っている。ひしめきあっている。一本の通り道を除いて。通り道には物が山となって散乱している。つきあたりのベッドも以下同文。とにかく部屋が埋まっている。問題は、それだけではないことだ。茶の間にもわたしのものが、そこここに積まれている。そして現在わたしがパソコンを使っている部屋は、わたしの部屋の隣の部屋なのだ。広い、はずの部屋である。ここも埋まっている。そして、となりの部屋もまた、少しずつ埋まりはじめている。こんな状況である。
 いいわけになるかもしれないが、その理由を書こう。
 まず、ウチそのものが、あまり片付いていない家なのだ。次に、親や同居人も、片付けが下手なのだ。ちなみにわたしは、自分が片付け上手とも思わないが、二人ほど下手だとは思わない。もっている物が多いからなのだ。捨てられないのだ。つまり、散らかっている理由は、仕舞いきれない程の物があるということと、わたし以上に片付け下手な二人が、むちゃくちゃをするからである。ちなみに家人からは、わたしは片付けが下手で、汚いなどと言われているが、普段使う茶の間の炬燵などはきちんとしていると思う。むしろ、わたしが片付けたものを散らかされて、わたしが後で文句を言われているだけにすぎない。ともかく、物が多いことと、片付け下手がいるというのが、主な理由だと思っている。
 で、欲しいのはスペースである。できれば区立図書館レベルでいいので、本の置き場が欲しい。たぶん、これなら一生分くらい大丈夫である。そして本棚に入れない本や、その他もろもろの物を収納するところも欲しい。普通の倉庫くらいでいいと思う。非常に贅沢なのはわかっているが、物を捨てるのは非常に苦痛なので(熱まで出してしまった。)、いつの日か、と思いつつ夢を見ている、だけではどうしようもないので、毎日精進している、つもりである。
 ああ、努力しているだけ、のだめや律子よりはいいのかもしれない、などとうぬぼれつつ、状況は輪をかけて酷いということには、善処するので見守っていて欲しい。

参考写真も載せておきます。
NEC_0475.JPG

NEC_0474.JPG

NEC_0472.JPG
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2008年06月29日

メモ的に。ふと思った。20080629

 芸術は、寄木細工やちぎり絵に似ていると思う。いや、それだと単位が大きすぎる。もっと根源的な原子の集まり。究極のアナログ。最小単位の繊細さで表現されようとするもの。現実には、感覚、感情は、知覚できなかったとしても最小単位まであると思うけれど、それを表現するものは、最小単位でないものが多い。だから、その最小単位の連なりに酷似するものが喚起されるように、そしてそれが連綿と連なるように利用されて、表現されるものではないだろうか。
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2008年06月28日

肥大化した身体感覚

 大企業の買収合戦などの記事を読んでいて、ふと感じた。以前にも、似たような感覚を感じたことがある。それは、自分自身の身体以外のものに宿る、身体の延長としての感覚、認識についてである。たとえば各種巨大ロボットを自分の手足のように動かす主人公たち、現実に目を向けても、F1レーサーやラリーストなどは自分の手足のよううに車を操る。職人も道具を使って繊細な作業をする。道具を通して実際に手足で触れたような感覚を得たり、意識として自分の身体が拡張したように感じる。また逆に、自分の身体すらままならないということもある。慣れない動作をしてみたり、身体の調子が悪かったり。たまにダンスをする機会があったり、歌を歌う機会があると痛感するひともいると思う。赤ん坊は少しずつ、自分の身体の動かし方を覚えていく。動かし、刺激は脳に伝わる。そして感覚として理解していくのだ、動かし方と限界を。その感覚をいろいろな形で、たとえば感性や感情として身体に刻み込んでいくのだ。
 なにもこういった事は目に見える身体だけではなくて、学習など、脳についても同じだと思う。慣れない勉強は難しいものだ。異国の文化は理解しがたい。幼いころから慣れ親しんだものに対しての意識は楽である。もっともその楽なことが、単なるパターンとなって、倦んでしまったり、たいした意味をもたなくなってしまったりもするが。とにかく、これらの刺激は何にでも及び、感覚として捉えられていくのだ。
 社会的な行動についても言える。たいしてお金を持っていなかった子供のころの金銭感覚はケチくさかったり、子供としての等身大だ。それ以上の使い方はなかなか思い浮かばないし、思いついてもぎこちないものだ。生活もそれに即している。大人になると、少しだけお金持ちになる。社会のこともわかり、より大きな動きができる。一般サラリーマンだとそのくらいなのだが、これが大会社とかに勤めると、その感覚が違ってくるのではないか。業務上とはいえ、自分の裁量が増えるのだ。あたかも億単位の金をもっているがごとく振舞うのだ。そう振舞わなければ、億単位の金を動かせないのだ。はじめは慣れなくても、少しずつ自分の感覚として染み入ってくる。大きなプロジェクトを動かせるようになる。
 あくまでも個人なのであるが、会社の人間として動いている間は、会社を構成する一分子であり、その担当の事柄については、あくまで会社であるがごとく動くのだ。巨大ロボットの操縦者のように。会社という社会は群体のようなものかもしれない。これは町、都道府県、国、星などの単位でも似たようなことがおきているのかもしれない。
 わたしたちは個人であり、システムの一部であり、ときには操縦者なのだ。あるものは地球にとっての白血球であり、赤血球であり、ミトコンドリアであり、リソゾームであり、細胞核であり、血管であり、骨格であり、いろいろなのだ。
 そんないろいろを、いつの間にか自分の身体感覚としていることが、結構あるのではないだろうか。生物個体としての自己を超えたところに持つ感覚、もっといろいろと意識できるかもしれない。
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2008年06月25日

自分の中に自己責任

 自己責任とは自分自身に向かって発する言葉である。他人との関係性においては、可能な限りand適切と思われるのなら、許容しあえるに越したことはないのだ。
 本よみうり堂の書評欄で今回、中村うさぎさんが『雨宮処凛の闘争ダイアリー』について書いていて、書中の「自己責任」というものに触れていたので、わたしも何とはなしに、普段からいくつかひっかかっていたこともあって、ついつい考えてしまったのだ。そして、冒頭のように帰結したのだ。
 わたしが自己責任と聞いて思い出すのは、民間支援でイラクに行き拉致された方々に対する世論、凶悪事件を起こしてしまった犯人の犯行理由に対する世論、その他ネット上でなにかと目にする。これらが何か、ひっかかっていたのだ。もちろん言いたい事というかその内に渦巻く感情はなんとなく分かる、わたしにもそう感じる部分はある。しかし、それら様々な状況においてなぜか、自己責任という言葉の使われ方は、どこか共通点があるように感じられていたのだ。
 世の中に、自業自得という言葉があるとおり、さまざまな事象には色々なものが影響しているもののその中でも特に影響の大きいものは、ある。その事象というものが自分自身であった場合、自分の行動がもっとも影響の大きいものの一つだと思う。つまり、自分の行動の結果が自分に返ってくるのだ。むべなるかな。状況によって違いはあるし必ずしもそうとは言い切れないだろうが、大方のところは、自業自得、因果応報である。
 そこへもってきて感情だ。他人を見る目は、自分を見る目に比べてはるかに冷徹で、相対化することによって気分を調整できたりもするので、さらにシビアになる。だから、面白半分に、あいつは自業自得だよとか、とばっちりをくってしまって、あいつは自業自得だが自分にとばっちりを云々とか、とにかく枚挙に暇が無いほどある。
 素晴らしくも厳しい方たちにも人気がある。自分をほぼ完璧に近いくらい律している方には理解できなかったりする。非常に努力する方で、どん底から這い上がってきたような方、もしくは自分でそのように認識されている方は、自分の責任くらいきちんととれとか、そんな甘いことを言っているからとか、そう言う。親とか教師とか大多数の大人とか、それを真似しているのかどうか知らないが非難好きと思われるような若者たち、井戸端の方々、各種メディアの論客さんたちも、自己責任が好きだ。
 そんなことをする奴は甘いから、自己責任だよ自己責任。もっともらしく、すぐに片付くのだ。もちろん、もっともな言葉であるから、もっともらしいのだが。上記のように、万事因果応報であるから、自分の行為の自分に対する影響というものは大きいし、意思決定組織としての最小単位である個人は、最小単位の責任者である。個人は自立しているべきであるし、自律できなければいけないので、個人におけるコントロール、決定、責任は、個人に帰するものである。まさに、もっともなのである。
 ただ、それを社会性に関する部分においても普遍的に使ってしまったり、その「自己責任だ!」と糾弾している自分に内在するもの、そういったことをまったく認識しないままに、不必要、不適切に、むやみやたらと発するのがいけないのだ。
 自己責任ということは、個人の中で帰結するものだと思う。他人に向かって自己責任を問うならば、その対象になる人の背後にあるもの全てを含めて問うていることになる。
 また、自己責任、と断罪してしまって、いったい何がどうなるのだろう。あいつが悪い、で終わっているようなものだが、その裏にある感情は違うように思える。わたしが感じるに、その裏にある感情とは、対象になった人をスケープゴートにして鬱憤晴らしをしているとか、自分が被った、もしくは被ったかもしれないであろう損害(税金など)の怒りの矛先としているように思う。ゆとりのニートは碌に税金も納めねーで非国民だ、そんなのは自己責任で云々、など。たしかに自分自身の影響は大きいが、どうにもならない人もいるし、また、実際にどうにもこうにも箸にも棒にもかからないような人がいたとして(たしかに困り者だが)、自己責任と言うだけでは解決にも結びつかないように思う。そしてそれらの者たちは、無視や忌避、法を犯した場合には懲罰という形で、社会から距離をとられることになるのだ。
 斯くして、発しただけでは(少なくとも現状のような発されかた)進展しづらく、むしろ発したものは自己の内部にある感情の吐露だったという事を隠蔽し、曖昧な満足にとどめ、発された方は、わけもわからず、ただただ断罪され追い詰められるのみの、自己責任という言葉は、むやみに使えば、逆効果のことが多いように思われる。
 では、どこに使うかといえば、自分自身に対してである。自分自身を常にみつめる目をもち、自分の為したことは自分に返ってくるという当たり前だが気づきにくい事実を意識に上るようにし、覚悟をし、自己の規範に寄与するようにすれば、それぞれのできる範囲内で、より良い方向に進むことと思う。
 また、他人との関係性、社会のありかたにおいては、許容が良いと思う。
 なんでもかんでも、だらしなく許容するというのではなく、事実は事実と認めること、ひとまず受け入れ、感情の吐露だけですませてそれで終わってしまうのではなく慎重に対処すること、お互いに受け入れあって交わりを生むことなどである。あったことをあったこととして受け止めることから、ものごとは始まると思うし、許容があれば融通も利く、余裕も生まれる。全てを自己責任で個人に区切ってしまえば、そこには社会性もなにもない。ただただ原始的な動物のような競争の場になってしまう。社会的生物はなぜ社会をつくり、そこに規範があるのかといえば、それはお互い競争しながらも共同体として生き抜くためではないかと思う。つまり断絶してしまえば、競争があるのみである。異なる個体なのだから、競合し、ぶつかり合うのは必然で、そのケースごとに彼我の善悪を問い、切り捨ててしまっては、お互いに不利である。だから全てに責任という、形がみえにくく、ただただ問うた者の何かを満たすだけの要求をつねにつきつけるのではなく、お互いに、無理の無い範囲で許容しあうのが、暮らしやすい社会だと思う。そうでなければ、非常に暮らしにくく、落ちるものはどこまでも落ちつづけ、非難するものは、バランスの悪い自我の拡大をすることになるだろう。





あー、記事、読み始めでピンときて書き始めて、今また記事読んでいたら、すでに中村うさぎさんが、雨宮処凛さんの文章を引用して、わかりやすくきちんと、短くまとめている^^;;;;
やっぱ、わたしって駄目だわw(´・ω・`) ショボーン
記事
http://blogs.yomiuri.co.jp/book/2008/06/post_4d2c.html
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2008年06月19日

23区再編の記事に思う。

 道州制の話を知ったときも、違和感嫌悪感があったが、今度はもっと具体的に降りかかってきそうな記事を新聞で読んだ。
 東京23区の再編である。
http://www.soumu.metro.tokyo.jp/05gyousei/arikata/1204.pdf
 効率化などの理由で各区を人口50万人以上にしたいらしい。23区の再編の決定権は各区にあるということになっているが、予定している権限の移譲は、東京都の求める再編をうけいれるかどうかが考慮されるという、いわば立場を利用した強制である。
 果たして、それだけの意味があるのか? などと、いろいろ疑問もあるのだが、わたしは疎いので、どうにもぴったりと指摘することができない。ただただ、違和感や嫌悪感をおぼえるのみである。
 しかし、行政上のいくつかの都合はあるのだろうけれど、それだけのことで再編をすべきだろうか。わたしはそうは思わない。一時的な一部の効率化のために、失うものが多すぎると思う。
 23区制はすでに60年を迎えた。それぞれの区民意識などもある。かつて、何度も行政区分を変更したときには、いろいろと大変なこともあっただろう、しかし、やっと慣れてきたのだと思う。
 昭和の後期から平成の大合併まで、いままでいろいろな合併があった。そのほとんどは、財政状況などからやむにやまれぬ合併だったと思う。そして、かつてのじっくりと築き上げられてきた区分は、失われた。
 全てが、都合の名の下に、屠られたのだ。
 いったい、どこからどこまでが「つくば」なのか分からない茨城県。「みらい」までついてしまって、一体いつまで、そして何が「みらい」なのだろう。ひらがな名称も多い。ひらがなが効果的な場合もあるが、無理矢理ひらがなの語感をつかったところで、やわいだけである。そして、漢字による意味も薄れてしまう。それに、西だの東だの中央だのつける。さいたま市も酷い。浦和も与野も大宮も岩槻もいっしょくただ。伝統と文化の薫る街の自負があるであろう浦和は、とうとう「うなぎの薫る街」にして自己のアイデンティティを保とうとしている。太田道灌の築いた岩槻城ももはや「さいたま市」の中だ。城下町さいたま、である。与野は埋もれた。大宮は駅名で残っている。見沼地域でない場所が、見沼区になったらしい。春日部や越谷あたりから浦和を目指そうと道を走っても、でてくる看板は「さいたま」である。浦和に行きたいが、この道で良いのか、さっぱりわからない。他にも、このような例が多々ある。
 こういった行政区分の変更は、土地を変え、歴史を埋もれさせ、住民のアイデンティティを破壊する。利用する人々にも多大な影響を与える。
 はたして、そんな都合で、むやみに行政区分を変え、名前を変えて良いのだろうか。
 わたしは、反対だ。
posted by はづき生 at 10:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月16日

20080616昼

 小難しい言葉だって惰性で使ってしまうことはよくある。平易な言葉だってきちんと吟味されて適切に、誠実に使われることは多い。咀嚼力は必要だが、なんでもかんでも見かけ硬そうなものを齧ればいいというものではない。もっともらしく立派な言葉を、それは常套句的で今においては虚無的ですらあるなどと、小難しい言葉で批判するのもそれは、すでに画一的なものかもしれない。もちろん、本当で、適切で、誠実なものならばよい。しかし、ただただ惰性でやっているものは、全て同じなのだ。自己批判すらも。
 平易なものも難しいものも誠実に向き合い、適切に使い、味わいたい。
posted by はづき生 at 14:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月12日

ふと思った20080612

 ラストフレンズの放映って、性同一性障害特例法の改定をするための布石なんじゃなかろーか^^;;;; 以前も金八先生があったし。少し前には、わたしがわたしであるためにがあって、中継ぎってところかな。
 穿ちすぎかなー。
posted by はづき生 at 20:30| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月07日

平穏はいいねえ

 昨日、母が病院で検査を受けてきて、癌のマーカーが下がっていることが確認されました。
 一年前は、どうなることかと思った。最近も、癌のマーカーが上がっていて、ずっとすっきりしなかった。健康っていいですね。
 ここ数年、仕事は危機に陥り、父の身体はボロボロになるわ脊椎損傷するわ骨折するわ帯状疱疹がでるわ、母は脊柱間狭窄症になるわ癌になるわ、まあその他にもいろいろと、呪われてるんじゃないかってことばかりでしたけれど、少しずつは良くなっているようです。一番大変なのは、本人だし。
 なんにせよ、平穏なのは有難い。
posted by はづき生 at 23:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

野田昌宏さん氷室冴子さん

 ご冥福をお祈りします。
 高校時代、読書家の友人がしきりに野田昌宏氏の著作を薦めていました。わたしも常々読もうとおもっていながらなかなか読まずにいて、探し始めたときには既に絶版になっていて、いまだに手に入れていなかったりします。氷室冴子さんも、高校時代に、ざ・ちぇんじなどを読みました。ふたりとも思い出深く、まだ早い死を残念に思います。
posted by はづき生 at 15:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする