2008年06月04日

書いたそばからリフレイン

 バカですね。必然性があるのならいいんだけれど。つい、ね。その他も、無駄にネガティヴだったり、だら〜っとした感じだったり。締まりがないですね。
 意識が緩すぎ。
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2008年06月03日

不味い

 味わっていないのだ。詩も小説も短歌も俳句も川柳も、生活も。ただただ流れ作業のように処理しているから、碌に味わうこともできないのだ。かろうじて、ほんの少し味わっているものといえば、外出していて何気なく、ふとしたときのその場の雰囲気、メランコリーな気分に酔いしれているサイテーな時間、と一応認識してみるような事。そんなもので毎日を構成しているから、がらがらと内部が崩れそうな音をたてるのだ。味わっていないから、味わうものを著せないのだ。
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薄っぺらいとか上っ面とか。

 まるで、ウィンドウショッピングをしているとか、立ち読みをしているようだ。
 わたしの書くものに、描くものに、言うことに切実さも深みも感じられないのは、わたしの気のせいばかりではないと思う。だから、ただ文字が並んでいるだけで、面白くもなにもないのだと思う。これは、ずっと変わっていない。以前から、よく言われていたことだった。自分でもそう思うし、どうにかならないかなと緩い事を考えながら、少しずつ、移動はしてみたけれど、大差はない。
 もちろん努力も足りない。ただ、努力がどうとか以前だと思う。きっと、根源そのもの、熱意が足りないのだと思う。だから、何にも深く潜れないのだきっと。表現技術上の問題とか、そういうレベルではないように思う。
 他人の著したものを読むと、初心者ベテラン達人問わず、たいていは、それなりの面白さとか熱意を感じる。わたしは、ただただ空回りして、空虚な空間に空疎な文字を、適当に並べたり崩したりしているだけだ。
 それでも、こんなでも、続けているのは、書きたいから。なんで、って言われると困ってしまうが、そんなものなのだがそれでも、わずかな、磨り減った衝動が、底のほうにこびりついている、ように思えるのだ。それを信じて。
 地道に努力、だけでなく。もっと、地の底深くに足を差し込んで、探れるようになりたい。
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2008年06月02日

題詠blog2008に参加します。(はづき生)

はづき生(はづきしょう)です。よろしうに。ううー、トラックバックも初めて体験。きんちょー。
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2008年06月01日

変化と受容と麻痺とあじわひ。そしてやっぱり残したい。

 新しいものは新しい刺激を与える場合もあり、画一的な欲求を画一的に満たすことにより、遍くその恩恵を与えることが多い。恩恵以外の部分についても、遍く与えてしまうけれど。そして画一的すぎて、ほんとうに新しい味わい深い刺激を与えているとは、思えないことも多いけれど、とにかく、いろいろと可能性を拡げて、多種多様な、そして多くは力あるものの欲求をメインに満たして、そこから迸るものを周りの者に恩恵として与えている。
 どうあれ、全ての事象は転変し、相互に干渉しあって、その状況に応じた形に変化する。変化できなければ滅び、変化したものは既に元のものではない。そうやって全ては、そうなるべくして成っているものだろうと思う。
 そんなものでもわたしたちは、こころを留めて、感じ入る。それぞれに。
 斯様な世の中の流れではあるけれども、とくに最近は流れは速いように思う。人間は、おそらく、この世で最も影響力のある種であろう。ほとんどの生物は、生きることに際して、環境適応によって微小な適性の差を埋めたり、変化に対応したりする。それは自身の肉体的な変容であったり、生活習慣の変化であったり、環境そのものを自身にあわせることによって行われている。その中でも人間は、最も強大な力をもつ生物なのだ。そして流れは、いくつかの用件を満たすと加速する。それは群れをなすことであったり、手を使い複雑な作業を可能にすることであったり、言葉や文字を複雑化し、コミュニケーションを洗練させていったり、そういった交わりや、記録、想像、創造により、複雑に発展した脳を持つようになったり、農耕をはじめることであったり、産業革命であったり、情報通信と利用の発展であったりする。今、あたりまえのようだが、おそらく最もその流れのスピードが上がっているのだ。
 人間はとくに、その文化的側面が、自我の確立において不可分なほどに、重要なものになっていると思う。国籍しかり、家柄しかり、性別しかり。そして他者に対する視線、思い。ある対象についての情報、たとえばそれについて言及されたことの内容、それについての名称、それについてのイメージ。つまり、ある国に対するイメージや、ある有名人に対するイメージは、それぞれことなったりする。自分や周囲の人間に対しても、各人の中で、そのイメージとして存在している。そのイメージは外見や、それについての様々な情報や、名称などが影響している。周囲の景色、自分の住む街並み、あこがれの街並みなども重要だし、生活スタイルも重要だ。そういった多くのものが集まって、個人は確立されているように思う。
 だから、そういったものが揺るがされるとき、アイデンティティも揺らいでしまうのだ。
 2008年5月30日の日本経済新聞朝刊の文化欄、私の履歴書で谷川健一さんが、新地名や新字体、新仮名使いについて苦言を呈していらっしゃいました。わたしも常々、そのようなことが気にかかっていました。小さいころは、なぜ難しい字と簡単な字があるのだろう、とか、「せう」とか「あふ」とか変な仮名遣いなんだろう、とか。近所の地名が整理されて行ったとき、平成の大合併で地名がたくさん変わったとき、なぜ判り難くするんだろう、なぜ味わい深い名前を失くしてしまうんだろう、と思いました。中国の漢字をみると、伝わった先の日本よりも酷い状況です。わたしは、現代の一般的な若者の感性で、この程度の捉え方しかしていませんでしたが、年配の方や学者の方となると、その憂いは計り知れないように思います。少し前の日本経済新聞の夕刊に、林望さんが、かなづかひについて書いていらっしゃったと思います。たしか、昔の仮名遣いには意味があって、現在よりももっと精妙な含みや味わいがあったとのことです。思えば、わたしなどが少し昔の人の小説を読んだとき「あじはひ」などと書かれていると、ぐっと沁みこむような気がします。地名についても旧漢字についても、それぞれの成り立ちなどが含まれています。
 つまり、行われている簡略化は、モールス信号のような、コンピュータのデータ通信のような、無機質に近いもので、単に赤外線ピッピッ! のリモコンや電子機器と、われわれ人間が、変わらないところまできてしまっている。合理化とスピードの名のもとに、ロボット化している印象すら受けるのです。
 欲望を、満足させるために、自らがその欲望を満たせない。あじはう事ができない。そんな世の中になっている気がします。知らず知らずのうちに疲弊し、アイデンティティを失いかけている。
 そんなこんなで、近所の地名が整理されていくことを、平成の大合併で地名が変わっていくことを、大変憂えているわけです。しかし悲しいかな、わたしは現代日本に生まれ育っているので、身に染み付いたものは、そういった「現代的」なものだったりします。自分のコントロールできる表現は、どうしても現代寄りになってしまう。無理に旧いものを使おうとすると、ぎこちなくなってしまったりします。でも、できるだけ、あまりストイックでない文章に関しては、好きな言葉を使ったり、旧い表現にも挑戦したりしたいですし、そういった表現を読むなどして親しみたいです。街並みも、あたらしい店の便利さなどを享受できて有難いですけれど、旧い街並みにも惹かれます。自分が管理するわけでも責任をもつわけでもないですけれど、ただ惹かれます。
 あまり、突っ込んだことは、自分にできもしな事だったり、無責任な立ち位置だったりして、どうこう言えるものでもないのですけれど、それでも感じ入ることは、良いことだと思います。
 近所の病院建設に、一喜一憂したり、マンション開発に憤ったり。畑がつぶされて憂えているけれど、出来た道路は便利だったり。こわされる街並みや転居しなければならない人を思ってみたり。いろいろです。
 そうやって、どうしても、いろいろ感じてしまいます。
 このようにして、人間は、欲望を満たし、進んでいき、振り回されて、アイデンティティの危機を感じてしまったり、便利さに酔いしれたり、味わったり、憂えたりするんですね。
 そういった様々なことを、なんとなく考えながら、憂えたり味わったりしています。
 でも、残したいこと、たくさんありますね。インスタントで強権的な変化は、やめてほしいです。慎重に、長い目でみて、本当に必要なことを、できるだけ(全部は無理ですけれど)理解を得られるようにやって欲しいですね。
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2008年05月27日

自分のヘタレ度

 どこかで何度か読んだことがある。歌集を読んで、最初の何首かがダメだったら、ずっとダメ。自分との相性が悪いか(自分がわからないだけとかも)、作者がヘタレであるかだ、と。
 小説などでも冒頭は重要で、最初が悪いと読む気がしなくなることも多いだろうし、最後まで面白くない場合も多々あるだろうけれど、こと短歌の場合は、それが顕著らしい。
 わたしは、ヘタレです。自分でも感じるくらいに。
 それでも、いくつか気に入った歌があるのは、それは自分がつくっているから、自分の感覚だから。そして自己満足したいから。そして、その気に入ったいくつか以外は自分でも、ダメだと思う。下手だと思う。ずっとそんな雰囲気の、歌が量産されているのだ。
 きっと、歌も泣いているだろう。(ああ、これもベタですね。)
 そして、さらに問題なのは、他のものもヘタレだということだ。
 俳句も、川柳も、詩も、そして小説も、ヘタレなのだ。なんとなく、ヘタレさ加減を感じる。ヘタレの空気が漂っている。恐ろしいことに、創作活動以外のことも、かなりヘタレ度が高いのだ、小さい頃から、これは自覚している。未だに進歩はないけれど。
 人には得手とする分野があるし、低いレベルでもその人なりに、なんとかなるはず、少なくとも形にくらいはなるはず、と思って頑張ってはいる。どうにかしなければならない。
 なぜ、こんな事を書いているかといえば、自分自身の中では、毎日更新して頑張っているんだ、とのぼせ上がっていたのだけれど、他の人の短歌をつぶさに鑑賞してみて、思ったのだ。このままではダメだと。
 毎日毎日、一瞬一瞬が上達の、岐路になっている。上へ行く道と下へ行く道があったら、上の道を行くべく頑張りたい。
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ああもう恐ろしい

 恐ろしい人たちが大勢いると思っていたし、今までみかけていたけれど、短歌でもまた、大勢いた。
 ヘタレなりに頑張ってみようと、あれこれかれこれなんやかや、やってはみているのだけれど、どうにも差を感じる。こんな、何が良し悪しか自信のない自分でも、感じてしまう、差。
 恐ろしいけれど精進の、種にしよう、そうしよう。
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2008年05月24日

琴欧洲

 琴欧洲ですよみなさん琴欧洲ことおーしゅう!!! 素人目ですけれど、いろいろ語らせてください、語っちゃいます。
 今日、幕内最高優勝が琴欧洲関に決まりました。まさか今場所に復活するとは思わなかった。今場所は琴欧洲を中心に、伸び盛りの力士たちが競い合って、楽しかった。(まだ終わってないけど^^;;)
 琴欧洲は強い。ここ2年くらいの成績は悪かったけれども、それでも強い。強さが発揮されていなかったのだ。わたしが感じるに、今の大相撲で強さのトップ3を挙げるならば、朝青龍、白鵬、琴欧洲である。もちろん他の大関陣や伸び盛りの力士たちも強いが、あえて線を引かせてもらう。彼らは飛び抜けたものがあるのだ。
 朝青龍は、身体バランス、スピード、勝負勘、なにより気迫がすごいのだ。もちろんそれを発揮するだけの力や技術は持っている。しかし力は幕内トップではない。魁皇の右は最強クラスだし、黒海や把瑠都の力はすごい、琴欧洲の力はさらにすごい。技術は栃東がよかったし、安治川部屋の力士は曲者だ。しかし、全てにおいて上位の実力をもって、持ち味であるスピードとバランスと勝負勘で、一瞬の内に勝負を決してしまう厳しさは、まさに朝青龍を横綱たらしめているのだ。
 白鵬は伸び盛りだ。以前は、身長は高かったしセンスもあったが、ひょろひょろしていた。センスと懐の深さだけに頼っているようなところもあった。しかし、小結、関脇と進むにしたがって、その強さは加速度的に上がった。技術や勝負勘も磨かれた。身体も太くなった。少しずつだがタフになってきた。ただ、まだ甘さがあった。それが関脇と大関で、少し足踏みをしていた理由だと思う。それが、身体の完成や技術の向上と共に、厳しさも加わってきた。そして横綱になった。横綱になってからは自信も深め、一番一番集中することで、さらに実戦経験に磨きをかけていって、とうとう朝青龍と並び立つほどになった。とくに今日の魁皇戦は良かった。とても集中していた。あの集中力と厳しさが、魁皇に何もさせず土俵を割らせたのだ。立合の集中、リーチの長さを活かして素早く差す。そしてきっちりと引き付けて寄りきった。
 関係のない説明が入ってしまったけれど、朝青龍はスピード、バランス、勝負勘、気迫。白鵬はセンス、体格、柔軟な身体などで、群を抜いているのだ。ほとんどの要素において高いレベルな上に、それらの長所を際立たせていて、強いのだ。そして琴欧洲も、もっているものは彼らに負けないくらい、強いのだ。
 琴欧洲は、誰がどうみてもわかるように、大きい。ここ2年ほど振るわなかった時も、体格と懐の深さで勝ててしまう貴ノ浪を思い出させる。琴欧洲はさらに大きいように思う。そして、力が強いのだ、おそらく現在の大相撲では最強だと思う。過去をみわたしてみても、あれほどの力は、わたしには思い当たらない。このところ中々発揮されなかったが、丸太どころか大砲である。外国人力士は力の強いものが多いが、その中でも群を抜いている。とことんまで鍛え上げられた、筋肉のロボットアームのようだ。あの破壊力に匹敵するものは、魁皇の右上手でも及ばないように思う。もはや、全盛時の曙の、会心の立合が決まった時くらいしか思い浮かばない。千代大海のぶちかましはけっこう強力だと思う。そして突きの回転は非常に速い。マシンガンのようだ。速くて、一発一発も見かけ以上に重いと思う。その突進力と回転の速さが武器だ。それでずっと大関をはっているほど、強いのだ。しかし、琴欧洲の場合は、それどころではない。回転の速さでは及ばないものの、それでもかなり速いのだ、そしてなによりもリーチが長く、強力なのだ。速射式大砲、である。しかも正確なのだ。レスリングをやっていたせいだろうか、身体の動かし方がとても理にかなっていて上手だと思う。絶妙なバランスで、素早く、詰め将棋のように相手を追い詰めるのだ。最初は速射の大砲。これだけで相手を沈めることができるのに、次はロボットアームか鉄人が、理詰めで、あのパワーで組み伏せるのだ。恐ろしい。技術はかなりある。他の外国人力士やパワー型力士とくらべても、あきらかに取り口が違う。無駄がない、駆け引きも上手い。ただ、ただ、くそ真面目さと気の弱さ、足の怪我が、やく2年半もの間、彼を止めていたのだ。しかし、今場所、動いた。今日の安馬戦は最初から緊迫した空気が漂っていた。立合って素早くまわしを取る。そして引き付け前に出た。しっかり出た。瞬間、安馬は投げを打ったが、琴欧洲は動じることなく送り倒し。集中して取り、先手先手を取り、前に出ていく相撲の、一挙手一投足が実を結んだのだ。半歩が効いたのだ。普通の力士なら、今までの琴欧洲なら最後の投げでやられていたと思う。しかし、今日は違ったのだ。琴欧洲がきっちりと自分の相撲を取りきった瞬間だった。
 琴欧洲関、おめでとうございます。
 また、大相撲が面白くなる。
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2008年05月21日

枠を今ちょっとまた考えてみた。

 枠にとらわれない、枠を破壊する、枠に縛られると倦んでしまうから、脳は刺激を求めるのだ、パタンでない刺激を最も求めるのだ、と色々がちゃがちゃごりごりだらだら考えていることが多いのだけれど、文章って文字って、どうなんだろう、何ができるんだろう、どこまでできるんだろう。
 パタンって楽、とは限らないけれどそれはそれでツボを押さえたみたいに感じてしまって普段ふだんに心地よい、ことも多い、ように感じる昔から、だって水戸黄門とか楽しいよ、決めポーズのある漫画はかっちょいいし、ラノベだってさくさくさくさく楽しいよ、ガジェットこんもり詰め込んで、ピクニックみたいだね。軽いだケーハクだなんて言われても、楽しいものは楽しいし、だいたいそこいら中に溢れている溢れかえっている。みんな気づかなかったり、認めていないだけ。歌舞伎だってフレームワークだって社会構造だって、常識、だってみんな日々の生活、だってそのまま、ね。枠の中にいることが慣れているから見えないんだね。結局、どこまで行っても逃れられないものなのかもしれない。きっと、そう。
 でも、その根源に迫ることはできるのかもしれない。最小単位までクォークまで。そして芸術は加速する。刺激を求めて、喜びを求めて。
 音ってすごい、リズムに乗って衝撃が、沁みこんでくる。細胞が打ち震える。絵ってすごい、眼を通して視神経を通して脳に、電流が奔る。
 文字は、文字は、文字は眼を通して入って、入ってきて、その持っている意味を、処理される。中には書のように、ダイレクトに電流が奔るものもあるけれど、基本的には意味処理が伴う。絵も、構造の基本の部分は意味に、人間の蓄積した意味に、縛られているけれども、それを乗り越えやすいように思う、文字よりは。それでも近代アートを待たなければ、大きな潮流はなかっただろうと思うけれど。人間の蓄積した意味も、元は電流なのだけれど、積もりすぎた、複雑になりすぎた、さすがに飽きてきたことも、多い。だから新皮質は脳の深部をまさぐり、求めたのだ。文字は、書の他にも、書ほどではないけれどフォントで少しだけ電流を発生させたりする。文面全体で発生させることもある。しかし、あくまでも基本は、積み重ねられた文化という論理的意味に縛られて、パタンの組み合わせが脳内で処理されるのだ、手軽な出来合いの食事を「味わう」ように。だから単純な味わいの繰り返しを味わったりするのだ、麻薬のように、麻痺する。少し、変化をもたせてそこから逸れてみたりする、と気持ちがいい。描写、論理表現によって行動などをそのまま描き出したりすると、擬似的にアナログな状況が脳内に構築されるのだ。作者が必要十分と判断した資材とともに読者にわかると思われる式を渡し、読者のプロセサはその式と資材と自分の中の資材とリンケージプログラムを用いて、描写を走らせて味わうのだ。その様にして、意味をもつものを組み合わせたり分解して、あの手この手をひねって近づくのだ、電流に。
 とても合理的に日常の単純化をすることによって利便性をもたらす文字というものは、苦労をして、少しでも近づく、身体表現に、絵に、音に。
 どこまで近づけるかは、わからないが、身体が知っているように思う。
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2008年05月15日

書くかどうかわからないけれど、メモ。
消す可能性大。



守・破・離

衝撃

揺さぶる

記憶に残る

味わい

共感

パターン

ピカソ

岡本太郎














http://higure1715cas.bufsiz.jp/



http://www.midorimitamura.com/
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2008年05月13日

小池光観察

 5月12日、小池光を眺めてきた。(ほんまは先生ってつけなあかんねんな、この場合。)やはり、なかなかにハンサムである。声を聞けば、親しみのある印象。訛りのある純朴そうな語り口とギャグに、マギー司郎を連想してしまった。ほほえましい雰囲気の中講評は続くが、ことポイントに差し掛かってはきちんと押さえる、さすが。穏やかではあるが、芯が手強い。
 できのわるいわたしだけれどよろしう。
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2008年05月11日

声のライブラリー20080550

 5月10日(土)に日本近代文学館で開催された、声のライブラリーに行ってきました。声のライブラリーは毎年2月、5月、9月、11月の第二土曜日に開催されていて、毎回、3人の文学者が自作の朗読をし、その後座談会を行っているものです。
 今回は、丸谷才一さん、リービ英雄さん、日和聡子さんでした。
 日和聡子さんは「おのごろじま」「虚仮の一念」を朗読。華奢な方で、当初の受け答えも少しはにかんだように細々としていましたが、朗読は、しっかりと落ち着いて緩急があり、作品の呼吸のようなものが伝わってきました。朗読の間胸郭の上下が激しく、息継ぎをしっかりとして安定した呼気を発しているのがわかりました。
 リービ英雄さんは「千々にくだけて」を朗読しました。9.11を題材にした小説なのですが、主人公の立ち位置、視点が絶妙です。日本と米国にまたがるアイデンティティの主人公の寄る辺なき、しかし確実にあるその感覚を日本語で、日本語でしか表現しえないながらも不安定な感覚、それによってより浮かび上がるものが表現されているように思えます。「千々にくだけて」は芭蕉の句の一部で、このような句や、とくに日本の長歌などは、日本語以外の言語では非常に表現しにくい、というよりもできない、それでしか表せないものが、まさにあらわされているのです。外国人であり日本文学者であるリービ英雄さんならではの作品だと思います。リービさんは朗読の間中、というよりは話しているときはほとんど、手振りが入っていました。手振りといっても話の内容によって特定の具体的な形や振りをとるわけではなく、むしろ感覚的なもの。わたしの印象としては指揮者の身振り手振りや、歌手が唱っているときに身体を動かしているような、そんな感覚を受け取りました。まさに言語や文化の狭間にあって表現をしていることの一端があらわれているような気がしました。
 丸谷才一さんは「輝く日の宮」でした。わたしは疎いのですけれど、源氏物語を背景にした小説のようです。さすが御大というか、枯れていないけれども枯れているような、奇妙な味わいがありました。物語の情感はたしかにあって伝わるのだけれども素っ気ないというか飄々としているような感じです。そのあまりの淡々さに、ちょっとラリホー入っちゃいましたけど^^;;;;
 朗読について、たまにあれこれと考えていました。朗読は無駄なのではないか。少なくとも、聴覚障害者の方や子供のために朗読する以外は、一体、どんな良いことがあるのだろう。書いてあるものは、読めばいいのだ。作者は伝えたい全てを込めて書き、読者はそれぞれに望む形で読み取るのだ。もう少し理由を考えてみる。読んでもらえばスピードが早い。場合によっては緩急がついたり印象的になって、理解も深まる場合があるかもしれない、例えばライブの講義と講義録の違いのようなものだ。もっと幅を拡げて考えてみると、別の表現形式だ。朗読という、別ジャンルのものだ。それによって、何か違うものを受け取れるかもしれない。小説や漫画がドラマ化すれば、同じものでもまったく違うのだ。共通の要素を受け取ることもあって、その部分については同一性が認められるかもしれないが、同一であって同一でないのだ、別の作品なのだ。他人が朗読するか、本人が朗読するかでも、違う。他人が朗読する場合は、どうしてもその視点が盛り込まれるのだ、そこに意味というか旨みがないといけない。では、本人の場合は。CDなどの音源から聞くのではなく、目の前で、ライブの場合に、もっとも効果があると思われる。何しろ、作者本人が目の前にいるのだ、これはとても大きなことだ。本人を感じられる。あくまで書かれた作品として味わう、のではない。書かれた作品としての全ては、その作品の中にある。語感、リズム、抑揚までも含まれていると思う。それを読者は、文章から受け取るのだ。しかし作者本人のものをそのまま受け取っているわけではないし、その場でしか享受できないものもある。もちろん作者本人のものが必ずしも至上であるわけではないが、作品をより味わうことができるように思う。






日本近代文学館
http://www.bungakukan.or.jp/
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2008年05月05日

COMITIA84

 COMITIA84に行ってきました。
 ずっと体調が悪くてどうなることかと思っていたのですが、朝にはどうにか動けるようになりました。
 ほとんどの時間、売り子をしていたのですけれど、わずかな時間にいくつか物色。あいかわらずティアズマガジンを買わない奴なので、行き当たりばったりで見本誌コーナーを漁る。いくつか目当てをつけ、突撃。いくつかは時すでに遅く売り切れていたりなどして不発。

文學館、大鰺温州「シガシはてなき」
http://www17.plala.or.jp/r135/
雰囲気が好きでした。なんとなく懐かしい感じ。1980年代の空気を嗅いでしまったよ。学生だったころ部室にあったライフアーツの同人誌、80年代の漫画などをけっこう読んでいました。そういった雰囲気が私の周りにたくさんありました。読んでいて不思議な感覚。間とか台詞回しとか展開とか、浸ってしまうねなんとなく。伊豆も好き。

空想科学温泉「空想科学温泉(ぬるいめ)第壱号」
http://sailor-dencyu.daa.jp/
こーゆー感じのSFネタも、どーしても80年代を思い起こす。

荒井克仁「形ないモノ」
http://horiayu105.cool.ne.jp/
作品中で自問自答している様に共感したとゆーか、作者の人が模索しながら何をどう表現しようとしているのか、じっくりみてみようと思って買いました。そして、いっしょに自問自答しよう。

松ノ木公民会「想思華」
東洋チックなところもあるファンタジーもので、きったはったのヒロイックものというわけではなくて、街の中でのあれやこれやで進む物語の雰囲気が気に入って買いました。「シガシはてなき」や「空想科学温泉」もそうなんだけれど、自家製本(たぶん)が多いなぁ。むかし自分でコピー誌を作ったときは、お金がないとか時間がないとか手軽だとか、そういった理由で作っていて、コピー誌といえばそんなイメージがありました。コピー誌ならではの味わいとかもあるのですが、前述した理由に付随した感覚にもとづくものでした。けれど、今回買った自家製本の同人誌は、むしろ自家製本ならではのつくり、というか、つまりはインクジェットプリンタなどによって表装などを自分流にしているのが良かったです。工夫すると、いろいろなことができそうですね。
それにしてもこの漫画、作者名は男性名っぽいんだけれど、絵も字も話も、女性っぽい雰囲気。(たとえば、松野乱がそうであるように。)


DORAGONIZM
http://dragonizm.org/dragonizm/
やー、ドラゴンですよドラゴン。ドラゴンたっぷりたくさんてんこ盛り、なので買いました。
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2008年04月29日

アンセルモ・マタイス先生、瑞宝章中授章受賞おめでとうございます

 AnselmoMataix(アンセルモ・マタイス)先生が、平成20年度春の叙勲で、瑞宝章中授章を受賞されました。
 おめでとうございます。
http://pweb.sophia.ac.jp/a-mataix/(3)diaryoftheheart/2008Abril.htm
 マタイス先生が上智大学にいらっしゃった当時、わたしのイトコがマタイス先生が顧問だった「めぐこ」というNGOに入っていて、マタイス先生が主催していたヨーロッパツアーに、わたしも参加させていただいたご縁があります。ツアー中、わたしは、両親の肩揉みで慣れているということから先生の肩揉み担当でした。ジョークの好きな先生で、お酒の好きな先生で、いつも明るくて、キリスト教の司祭であるということを、良い意味で感じさせない、自由で、そして厳しい人だと、ツアー中に実感しました。常に自分を律して、やるべきことを見誤らずにやり遂げる人だと思いました。
 そんな先生が、わたしのことを褒めていた、と、叔母から(先生は、イトコの結婚式を執り行うなど、イトコとは深い付き合いですので、叔母までいろいろな話が伝わっています)聞いたときは、とても嬉しく、いつまでもだらだらと、何も成し遂げておらず、自信の持てなかったわたしには、とても励みになりました。そういったいくつかの評価が、今のわたしを支えています。
 お会いすることは少ないのだけれど、マタイス先生の存在は、とても大きいのです。
 どうか、これからもお元気で。
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2008年04月24日

やっぱりまだまだうだうだと

 相変わらずです。
 最近忙しくって、忙しくなければもっと色々できたのにっ!! などと思っていたのですが、今日、少し余裕ができてみて、このところを振り返ってみて、けっきょく停滞してばかりという事に、嫌でも気がついた。
 まいにち毎日かけ声ばっかり。予定だとか方法だとか、そんな「計画(カッコツキの)」をだらだら立てているだけ。「計画」好きなことは好きなんだけれど、もちろん実行しなければ意味がない。
 そこで、それでも、やらねばならぬので、ざざっとまた「計画」。懲りずにすすまないと、それこそ挫折してしまうので。
 ダイエット(というか減量)、英語の勉強、小説。これをやる。
 小説に関しては、週に1度は、なにかしら更新を目指そう。
 と、追い込んでみる。
 本当にできるかどうかはわからないけれど、というか、落ちることが多いだろうけれど、やってみる。などと、うだうだうだうだ相変わらず言いながらでも、進んでみる。とにかく、転んでも進むのが、今年のモットーなのだ。
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2008年04月23日

下妻

 下妻って、なんか赴き深い名前ですよね。とくに妻って字が。DVDの下妻物語観てみたい。ってゆーか、その前に小説の方、読まないと、買ってあるのに。イメージだけぢゃ、どーもこーもないっすね。
 などと、茨城県のあの辺りに対して、なんとなくなイメージだけを持ったまま、下妻、行ってまいりました。実は親戚が住んでいたんですね、下妻だったとは知らなかった。
 母方のいとこを訪ねて130kmくらいでしょうか。常磐道を使うと、谷和原ICまではかなり早いです。で、おりてからが、だだっぴろい。近づくんだか近づかないんだかわからない筑波山を右手に小一時間。運転は叔父さんがやっていたので、わたしは全然疲れませんでしたけど。イメージ的には、も少し山な感じで、小ぢんまり〜ちょと古め〜♪ だと思っていましたけれど、茨城県の例に漏れず、だだだだだだっぴろかったです、途中。街の中心部は、けこー古くてくねくね&ぱらぱら農地でした。ああ、イメージだけじゃなく、行ってみるものですね。こんどは小説も読んで、DVDも観て、ゆっくり行ってみたいです。きっと何か発見できるはず。
 親戚の家では、近所で取れた野草の天ぷらなどをいただきました。その後は筑波山に行きました。筑波山の周りをしばらくドライブしたのですけれど、かなり広くて、周回するのに2時間くらいはかかりました。遠くから見ると、ただの単独峰だとか、小さめとか思っていましたけれど、近づくと周りにも山があるし、北茨城の山地の末端のように感じました。道はくねくねしていて、ああ、ここが漫画のイニシャルDで、対パープルシャドウ戦の舞台になったのかっ!! などと思いつつ、対向車線をみれば、ホンダS2000が2台。うーん、むべなるかな。BeetやMINIcooperの集団もいました。ガードレールは、抜けているところ、がいくつもありました。ガクガク((((;゚Д゚))))ブルブル
 ホテルに宿泊したのですけれど、露天風呂からの景色がとてもよかったです。
 帰りは、河原子の魚苑という店で、食事をしました。
 ああ、ぜんぜん下妻じゃないや。いいやお腹いっぱいだし。また行こう。
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2008年04月19日

モギケン記念日

茂木健一郎を初めて見たから、4月18日はモギケン記念日。

 朝日カルチャーセンター新宿の茂木健一郎先生の講座、第一回は、林望先生との対話で、「今、「古典」がおもしろい!」でした。
 でぇぇぇぇぇぇぇ〜〜〜〜〜。ふと見たら、目の前に、茂木健一郎センセがいるじゃないですかーーーーーーーー。
 ドキドキショックハラホロヒレハレ
 いや、もー、それだけ、です。中身ない記事ですけど、いいんです、それだけです。書きたかったんです。


これだけじゃ、さすがになんなので。わたしの受け取った範囲での記述をば。



書誌学、イギリスでのこと、林望先生の著書などをキーにして、話が展開。


よーするに。
古典をもって、日本人たる自分を掘り下げてみれば、百戦危うからず、人生厚くして楽し。
と、わたしゃ解釈しました。(いいのか? これでw)
posted by はづき生 at 03:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月18日

20080418とくになし

この世が楽園ならば、地獄も楽園である。
posted by はづき生 at 23:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

放屁

屁をしても一人
posted by はづき生 at 06:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月17日

生者の気持ち

死を目前にしたときの気持ちは、死を目前にしたときの気持ちでしか、ありえない。
posted by はづき生 at 19:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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